(2020年12月)

~ コレラの流行と木野山さま ~

2020年は、世界史に残る1年となりました。遺伝子を切ったり貼ったりできてしまう時代なのに、目に見えない新しいウィルスとのたたかいは、防戦一方の状態が続いています。いにしえの人達は、原因も分からず疫病に向かい合わざるを得ませんでした。先達の努力や苦労を知ることは、謙虚な気持ちで学びを深める機会になるのではないでしょうか。

幕末~明治初期に、コレラが大流行を繰り返しました。世界的な流行によって海外から持ち込まれたもので、長崎や下関などから拡大していきました。コレラという病気は、コレラ菌で汚染された食べ物や水を、口から摂取することで感染します。コレラ菌が産生する毒素が原因となり、嘔吐と激しい下痢による脱水症状をおこします。適切な処置がなされなければ、重症の場合、数時間で死に至ることがあります。現在でも、上下水道が整備されていない途上国を中心に、3万人以上が死亡していますが、点滴や経口補水液などで脱水を治療できれば、命を失う病気ではなくなっています。備中足守出身の医師で、大坂に適塾を開いて多くの門下生を育てた緒方洪庵。江戸時代末期、大坂でのコレラ流行の最中、外国の書物も参考にして、『虎狼痢治準』という、コレラの治療法をまとめたものを出版しました。おなかの中で虎や狼が暴れるような激しい下痢を表して、「虎狼痢」と表記したのです。コレラは激烈な症状のため、発病者は、ころりころりと死んでいくため、俗称「コロリ」とも呼ばれていました。治療に関わった最前線の医師も命がけで、洪庵から天然痘の予防法を学んだ備前の名医、難波抱節は、治療で奔走する中、コレラで命を落としています。

明治12年のコレラ流行では、岡山県における死者は、約5千人(死亡率60%)にのぼりました。愛媛県から火の手が上がり、またたく間に岡山県内にも蔓延し、多くの犠牲者が出ました。ドイツの細菌学者、ロベルト・コッホがコレラ菌を発見する5年前のことです。原因も分からず、一般の庶民が抱いた不安や恐怖は、想像できない大きさだったでしょう。人々は、なすすべもなく神仏に祈りました。中でも、高梁市の木野山神社には、コレラ退治のご利益があるとの信仰を受け、多くの参拝者が訪れました。疫病除けの神様として有名で、古来より狼を信仰の対象とし、流行病・精神病に霊験あらたかな神社とされています。コレラは「虎烈刺」などという表現も使用され、「虎」に勝つのは「狼」しかない、ということで、「木野山さま」に信仰が集まったようです。岡山のみならず、各地に分社が建てられ、コレラ平癒が願われました。民俗学者で岡山大学医学部客員研究員の木下浩先生に話を伺いました。当時の山陽新報には、 【木野山大権現を市中へかつぎ出しコレラ病を喰い殺してもらうと毎日輿(みこし)を担ぎ・・・ヨイサヨイサと諸方を馳せ廻り昼夜賑々しき事なり】 と、各所で祈祷や酒食で大勢が寄り合った(密になっていた)ようです。疫病除けのまじないや神輿を担いで騒ぐ様子に、感染拡大を心配されました。コレラは“伝染する病”であることは、庶民にも理解はされていました。それでも人々は、「木野山さま」にすがって祈りを捧げながら、コレラに向かい合っていくしかなかったのです。

はじめて木野山神社を訪れたのは、2年前の秋でした。伯備線・木野山駅から近い、木野山山麓には「里宮」があり、山頂には「奥宮」があります。「奥宮」にある、狼の像を見に行きたくて、近隣の人に道をたずねました。「車なら、あっちからぐるっと回る道が早いよ~」と言われました。簡単そうに教えてくれたものの、なかなか登り口は見つからず、ようやく木野山を上りはじめてびっくり。狭くて離合できない山道を、茂る草木の中を抜けるようにして、20分ほど走ってたどりつきました。途中、西日本豪雨の爪痕が残る崖崩れで、道が寸断されかかった場所もありました。奥宮の境内には、小さな狼の像が数体ほどみられました。少々拍子抜けしていると、野猿が逃げ惑う姿もみられ、日暮れも迫る中、急いで帰途につきました・・・。現在、奥宮は使われておらず、里宮で参詣するようです。当院受付の壁にかけられたお札は、新型コロナ退散を祈念して、木野山神社で配布されているものです。ながめていると、人間が無力でちっぽけな存在だということを、教えてくれているように感じるのです。そして、撲滅はできなくても、“終息しないパンデミックはない” ということも、歴史は教えてくれています。