平成29年 吉備陵南まちかど博物館
 
11月の吉備綾南まちかど博物館では、マスカット薬局さんと合同参加いたしました。「岡山ゆかりの医人」と題してミニ講演を行いました。福江元太さんの素敵なギターライブとともに、癒しのひとときを過ごしていただけたかと思います。
以前も述べましたが、医療にとどまらず、いにしえの先達の努力や苦労を知ることは、感謝の念と謙虚な気持ちで学びを深める機会になると感じています。岡山からは、医学の発展に貢献した多くの医師が輩出しています。講演では、江戸末期に活躍した岡山ゆかりの医師の紹介と、この時代に如何にして医術を身につけたのか、また当時流行した疫病との闘いなどについても触れました。江戸末期の医学へのロマンみたいなものを感じていただけたのではないかと思います。講演内容の一部を以下に紹介させていただきます。

1823年長崎の出島の医師としてシーボルトが来日します。西洋の科学技術を伝えるために、鳴滝というところで塾を開き、教育や診察を行いました。岡山からは、石井宗謙児玉順蔵石坂桑亀の三人が入門しています。石井宗謙は、のちに岡山市内で開業します。シーボルトの娘である楠本イネは、宗謙のもとで学び、日本人女性として初めての西洋産科医として活躍しました。表町にある「オランダ通り」は、イネが修業した場所で、名前の由来にもなっています。
 
江戸時代には、大学や医学部はありませんでした。医師になるためには、有名な漢方医や蘭方医(オランダを通じて入ってきた西洋医学を学んだ医師)が開く塾で修業しました。そこで医術を身につけ、地元などで開業して生業としました。

緒方洪庵は、大坂に適塾という学塾を開き、天然痘のワクチンを広め、蘭学と西洋医学の普及に貢献しました。優れた教育者でもありました。今から約200年前の1810年、足守藩の下級武士の家に生まれ、17歳のとき、医師になって自立することを決意します。大坂や江戸で修業したのち、27歳で長崎へ向かいます。西洋医学の知識を吸収し人脈を作りました。2年間の留学を終え、29歳のとき、大坂で適塾を開きます。適塾出身者には、幕末から明治にかけて活躍する多彩な人材が輩出しましたが、福沢諭吉もその一人です。多くが医師の子弟でしたが、農家や商人の出身者もいて、当時の身分制度に関係なく平等に勉学に励める気風がありました。洪庵は多忙な中でも、病気のしくみを解明した『病学通論』や、内科学書『扶氏経験遺訓』などの著作を残しました。コレラや天然痘は、命に係わる伝染病でした。大坂でコレラが蔓延すると、洪庵は治療法についての西洋の著書をまとめ、『虎狼痢治準』として出版しました。1849年には日本ではじめて牛痘種痘法(天然痘のワクチン)が行われます。洪庵の尽力で大坂に設立された「除痘館」という所で、本格的な予防事業が始まりました。翌年には足守に帰郷し、「足守除痘館」を設けてワクチンを広めました。また、ワクチン接種の技術を地方の医師にも伝授し、地元でワクチンが普及していったのです。
 
晩年には大きな転機が訪れます。医師の格付けとしては最高位の「奥医師」という、幕府に仕える医師に就任したのでした。心身ともに大きな負担がかかっていたのでしょう。明治維新まで5年という1863年、自宅で突然血を吐いて急死してしまいます。享年54歳、東京の高林寺というお寺に埋葬されました。
 
49名もの岡山出身者が適塾に学んでいます。開塾当初からの門人である緒方研堂と、塾生ではありませんが足守で種痘法を学んだ難波抱節についても紹介いたしました。紙面の都合で内容は割愛させていただきます。緒方洪庵や緒方研堂は大坂で塾を開きました。対照的に、難波抱節は備前を中心に地元で活躍し、全国から門人を集めました。偉大な洪庵の陰で功績は目立ちませんが、緒方研堂と難波抱節は、その献身的な活躍から、岡山ゆかりの先人の中でも特に注目されるべき医人だといえるでしょう。 

 
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